脳の使い方が変わる

東京大学の池谷裕二という先生の書いた記事に目からウロコの想いだった。調べてみるとこの先生あの糸井重里さんと一緒に本をだしていたりするなかなかの方らしいのですが、その記事というのはある企業の社内報のしかも過去記事なのですが

パソコンやケータイを使うようになって、「漢字が書けなくなった、電話番号を覚えられなくなった」といった話がありますが、情報機器を使うことによって記憶力が衰えるということはあるのでしょうか。というよく聞く話についての質問に対して

漢字を覚えるのにも時間がかかります。その時間を節約するために、人類はパソコンをつくり、漢字を覚えるのをパソコンに任せるようになったわけです。その経緯を忘れて「昔は漢字を覚えていたのに忘れてしまった」と嘆くのはおかしいような気がします。漢字を忘れてもいいようにパソコンを使っているのですから、これは記憶が衰えるというのはちょっと違う気がします。 

と答えられてつぎに続く事例が目からウロコだったのです。

文字が発明されたときにも大騒ぎになったはずです。文字というのも、紙に書いて残して
おくわけですから、要するに外部記憶装置です。この意味ではパソコンと同じです。文字がなかった頃は、レシピであれ、しきたりであれ、すべて覚えていなければならなかったでしょうが、文字が発明されたことで暗記するという作業が少なくなった。そのときも、先にいわれた意味の「記憶力が衰えた」というようなことが起こったはずでしょう。でも、それが人類にとって悪いことだったかというと、そんなことはない。文字がなければ困るわけです。

覚えておくか誰かに聞くしかない世界から、書いて文字で残したり書籍で調べたりする事ができる世界へ、そうして今、かな漢字変換で書けない漢字も使って文書を残し、本など一冊も手元になくても、その情報がどこのHPにあるかさえも知らなくても ネットで検索すれば世界中から膨大な情報や知識を得られる時代。こつこつと長い時間かけていた計算も一瞬です。紙に文字で書いてあってそれを見れば済むことは暗記する必要がなくなったひとつの情報が共有できるようになった文字の発明。コンピュータとインターネットを含む通信環境が発明され、その性能が脅威的に向上してそれを活用することで 同じことをするために使う脳のパワーが少なくて済む。もしくはよりレベルの高いことをすることが可能になった。 そういう状況を文明の発展というのかもしれません。先生の記事は下記のように結んでいます。

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イマジネーションを膨らませる、クリエーティビティを発揮する、そういったことは人間にしかできない(まだコンピュータは不得手?)のだから、そこは人間がやっていこうということです。
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文字の読み書きが出来ない人(「文×」は差別用語なんだそうです)ならぬ「デジ×」は現代社会では障害者的な扱いになるのかもしれません。それなりに使えるのはあたり前でその上で、創造力を発揮できる脳の使い方が新しい時代の脳の使い方で、記憶力が凄いとか、暗算能力がすばらしい。という能力の評価ポイントは低くなっていくのかもしれません。手先が器用(職人)だったり、歌が上手だったり、対面で楽しく話が出来るとか、機械(ロボット)やコンピュータはまだ弱いと言う部分の能力を鍛えていかないといけないのかも知れません。 

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無料のペーパクラフト D51に挑戦!

Img_8779_3
夏休みの宿題というのは今もあるのでしょうか?これだと金賞は難しいかな。
マッチ棒で作った五重の塔とか、タバコの包装紙で作った灰皿など、おじいちゃんの趣味の発表の場ではないよといいたくなるような力作も持ち込まれていましたが、チープなプラモデルや、段ボ-ルで作ったロボットなど創意工夫をこらした大作も登場した夏休みの工作。最近はホームセンターに下処理の終わった工作セットみたいなものも売られていたりするようです。

で、冒頭の写真のD51ですが、インターネットにつながるパソコンとプリンタ。あとははさみとカッターと糊とセロハンテープとがあればされでも作ることができます。あ、それと集中力と根気(^_^;)

Img_8784_2 生来のいい加減さで、セロテープを多用して仕上げてしまっていますが雰囲気は伝わるとは思います。

元ネタはJR西日本人気列車ペーパクラフトのコーナーです。どうせ作るならとD51に挑戦してみました。レールや背景もあってちょっとしたジオラマも作れるようになっています。

JR西日本以外にも、電車以外にもいいろいろフリーのペーパークラフトはあるようです。まとめているのは ここ  

このラフさでも、ゆうに2時間以上はかかっていたりします。小学生低学年には難しいのかもしれませんが夏休みの宿題ネタでした。

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教育の色々

教育の色々」そういう題で「kakoの手文庫」のkakoさんが記事をかかれていた。
娘さんの運動会の準備の出来事から自分が小さいとき転校した山の中の小さな学校と、町の大きな学校で、教育の方針が違っていた話を元に、一度しかない教育の機会を子供は選べないことの人生への影響について問題提起されていた。

この記事はコメントとして書きかけていて長くなってきたので、自分の記事にしてしまったもので、トラックバックさせてもらいました。

詰め込みすぎだ人間性軽視だと非難されて、ゆとり(?)にしたら学力が落ちたと問題視され、それでもそれぞれの時にその教育を受けて育った子供があるように、同じ時代でも地域によって差があった(ある?)んでしょうね。
先日ロボコンのアジア大会を見ていたら、中国、インド、ではなく決勝に残ったのはベトナムとタイ、グランプリをもらったのはマレーシアでした。優勝したチームのメンバーがどんな教育を受けて来たのかはわかりません。でも日本のチームより目がキラキラ輝いていたように感じました。
豊かな現実が幸せのように言われますが、今より豊かな未来に向かっていく、辛抱や努力の先に嬉しいことが待っていることが幸せなのかもしれません。
それを示せないと教育というものは行き場を失うのかもしれません。

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卒業式 式次第

「旅立ちの日に」を検索されて卒業式の歌 「旅立ちの日に」へのアクセスが多くなっています。トラックバックもいただいていて、昔ながらの卒業式を振り返ってみました。それにはまず式次第からと調べてみると意外な事実が判明しました。

●卒業式 式次第 

卒業生入場
(修礼)
1.開式の辞
2.国歌斉唱
3.卒業証書授与
4.皆勤賞授与
5.校長式辞
6.来賓祝辞
7.在校生代表送辞
8.卒業生代表答辞
9.「仰げば尊し」斉唱
10.校歌斉唱
(修礼)
11.閉式の辞
「蛍の光」斉唱
卒業生退場

昔からある卒業式のパターンです。最初と最後に礼をする(修礼)というのは北海道では一般的なのですが本州にはないようです。今回調べてわかったことがこれです。仰げば尊しが作者不詳というのも初めてしりました。皆勤賞というのは今もあるのでしょうか。


仰げば尊しは1884年(明治17)発行の教科書「小学唱歌集第3集」に掲載されています。作詞作曲不詳とされていたこの曲が、大槻文彦、里見義(埴生の宿の作詞者)、加部厳夫の3人の学者を中心に合作され、リーダー格は稲垣千頴(蝶々の2番の作詞者)だという説もあるようです。。内容が「蛍の光」と対になっているのは、伊沢修二が稲垣らの学者に依頼して、そう作らせたかもしれないとのこと。「ほたるのともし火つむ白雪」に対して「ほたるのひかり、まどのゆき。」この辺を対と見るかどうかは意見の分かれるところなのかもしれませんが。 で、その二つの歌をよく歌われる範囲のみ掲載

仰げば尊し
         文部省唱歌
一、
  仰げば尊し、わが師の恩。
  教の庭にも、はやいくとせ。
  おもえばいと疾し、このとし月。
  今こそわかれめ、いざさらば。
三、
  朝ゆうなれにし、まなびの窓。
  ほたるのともし火、つむ白雪。
  わするるまぞなき、ゆくとし月。
  今こそわかれめ、いざさらば


蛍の光
       作詞 稲垣千頴(いながき・ちかい)
一、
  ほたるのひかり、まどのゆき。
  書よむつき日、かさねつつ。
  いつしか年も、すぎのとを、
  あけてぞ けさは わかれゆく。
二、
  とまるもゆくも、かぎりとて、
  かたみにおもう、ちよろずの、
  こころのはしを、ひとことに、
  さきくとばかり、うたうなり。

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子は親の鏡 皇太子さまが紹介した詩

批判ばかりされた 子どもは
非難することを おぼえる

殴られて大きくなった 子どもは
力にたよることを おぼえる

笑いものにされた 子どもは
ものを言わずにいることを おぼえる

皮肉にさらされた 子どもは
鈍い良心の もちぬしとなる

しかし、激励をうけた 子どもは
自信を おぼえる

寛容にであった 子どもは
忍耐を おぼえる

賞賛をうけた こどもは
評価することを おぼえる

フェアプレーを経験した 子どもは
公正を おぼえる

友情を知る 子どもは
親切を おぼえる

安心を経験した 子どもは
信頼を おぼえる

可愛がられ 抱きしめられた 子どもは
世界中の愛情を 感じとることを おぼえる

~ドロシー・ロー・ノルト~
『Children Learn What They Live』

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佐世保事件 怒りを言葉に

 「ムカつく」「超ウザイ」さらに「ぶっ殺してやりたい」「死ねばいい」を気に入らない子への思いとして連発する。
あの事件の年代の少女のカウンセリングを行うと大半が相談したいのは仲間のいざこざで、どの子の口からも冒頭の表現が出てくるのだそうである。我が家の高校2年生の女子も、確かにまま使っている。その言い方は何とかならないのかという問いに、「だってムカつくものはムカつく」が彼女の答えであった。
 秘密を共有することで発生する仲間関係は、この年代の行動として一般的であったのだけれど、それが親密を超えて閉鎖的、排他的になっていて求めるものが強い分、逆にいらだちと不安を増強させている。のだそうである。

 この話は今朝(6/5)の朝日新聞 私の視点(ウィークエンド) 佐世保事件「怒りを言葉にする支援を」というコラムから抜粋、紹介している。黒沢幸子 目白大学助教授(臨床心理学)・臨床心理士 による記事である。
 仲間とのこういう内的葛藤のピークは小学校6年生とりわけ女子に多いという話しで、言葉は発しているが、自分の怒りの感情を整理できていないために貧困なボキャブラリで冒頭の表現しかできないということらしい。
 訳のわからぬ怒りの感情は、悔しい、悲しい、わかって欲しい、怖い、ねたましい、寂しい、というようないろいろな感情(言葉)に分かれる。怒りの感情を受け止めつつカウンセリングで話を聞いてやることで、そういう風に整理して言葉にしてあげることができるらしい。実際にカウンセラーとして日々接している人の話だけに非常にわかりやすく説得力がある。
 怒りの感情を言葉にすることで、問題を解決にむかいやすくするのだという。一方怒りが適切に表現されずに抑圧され、それが慢性化すれば、一気に噴出す危険性をはらむという。黒沢助教授の文章は次のように続く。

  「独りで悩み、独りで考えた」という今回の加害女児の言葉は痛恨の極みだ。

子供たちをほめてあげてほしい。失敗の責任ばかり追及していないか。心の教育やらこうあるべき論では社会で生きる力を身につけることはできない。と三つの技術教育を例にあげている
  ○他者と積極的に交わるためのコミニュケーション技術
  ○自他の人権を大切にしながら適切な主張を行うための訓練
  ○怒りの感情の制御方法

世の中の動きがあまりに早く心と身体がバランスよく順調に成長するのが難しい時代だが、子供たちのみずみずしい感性や思考は決して枯渇してはいない。それを育て磨く機会を作るのは私たち大人の日々の対応であり、メディアを含む子供たちの環境である。と結んでいる。

この記事に大いなる共感を覚える。その上で雑感を記する。三つの技術教育が行われたとしても、それがなかなか理解できない子ども、うまく出来ない子どもは必ずいるだろう。優しい心はどうしたら育つのだろうか?人の憂いを理解してあげることが優しさなのではいかと思っている。非常に観念的な話になるのだが、生命の大切さというのもまたそれかという位に話は出てくるが、一緒に暮らしていた年寄りが死ぬ。幼い子にその悲しみを判らせ生命の尊さを教えて死んでいくのが年寄りの大事な役目なのに今はそれが出来ない家庭環境ばかりと説いたのは永六輔氏である。親はなくても子は育つ と伝えた昔の日本は今はないのだと思う。ひょっとしたら 親がいるから子は育たない のかも知れない。未来のある子供たち 大切にしたい。
 

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インターネット が引き起こした事件 ?

長崎県佐世保市で起きた小学校6年生の殺人事件は予想外な展開を見せている。

NHKニュースによれば
 怜美さんと女子児童はふだんから仲が良く、それぞれがインターネット上に持っているホームページに互いに書き込みをしていました。「自分のホームページに怜美さんが行った書き込みをめぐってトラブルになり、呼び出した」NHKニュース

朝日新聞によれば
ホームページ(HP)に面白くないことを書き込まれたので、(教室から現場の学習ルームへ)連れ出した。殺すつもりだった」と話している 

なんだか困った複雑な話になってきたというのが印象です。交換日記というような閉じた世界であれば、多少悪意を持った表現でも本人に対して直接伝えることになるけれど、インターネット上となると不特定多数の人が見るわけで、しかも大多数の人は本人は直接知らないわけで、極端になればネカマ(男性がインターネット上で女性を演じること ネットオカマの略)という存在すらあります。年齢、住所、容姿、匿名性の許される世界です。ただ明らかにしないことと虚構の世界で事実を歪曲したり脚色することだってあります。「面白くないこと」がどういうことだったかはわかりません。たとえば、本当は違っても「モー娘。のだれそれにちょっと似ていると言われます。」と自己紹介していたかもしれない。それを誹謗するように否定する書き込みをされたなどというような事もかんがえられなくはない。

ひょっとしたら、友達同士15歳と中学生を演じていたかも知れない。ふだんは大人しい、喧嘩したら体力的には絶対弱いタイプの少年かどうかはわからないが、多少インターネットを使いこなせるのを鼻にかけ、安っぽい下品なチンピラのような振舞いを得意がってしているような少年もずいぶん見かける。本を読む、テレビを見る、友達から電話がかかる。親がチェックできていたことが携帯電話を持たせ、パソコンを持たせ、何を見聞きしているのか、誰と話をしているのか親が把握できない時代になっている。本人の責任に任せておいて大丈夫なのかどうか、個人差はあるのだろうけれど何歳を基準にするのか、そんなことを見直さなければいけないのかも知れない。バランスが問題だと思っている。感性、知性、経験、自然に接する、偏った経験や知識は偏った食べ物は健康をそこねるように何かをゆがませる。サプリメントでは正しいバランスにはなっていないと思う。
高齢化に伴い精神年齢はどんどん低下しているような気がする。人生50年時代の20歳成人といえば人生の40%過ぎて大人扱いということになる。80歳なら32歳で大人扱いということになる。逆に計算すれば今の20歳は人生の25%、50歳なら12歳小学校6年生。話をきけないふざけるやつが中にいてもしょうがないのかもしれない。昨今の成人式の振舞いの輩をみるとあながちめちゃくちゃな論法でもないように思える。
どういう評論や世論が起きてくるのかはわからないが、今大人になっている人たちの経験では語れない環境の中に今の子供たちはいる。その事実を認識した上で考えていかないと、単純にパソコンは危ないみたいな話になりそうな気がする。何でも吸収できる若い時代に、ものすごい情報量を世界から提供してくれるインターネットは使いようによっては夢のような道具でいたずらに取り上げるべきものではないと思ってはいる。

同じような心配をしているココログさん
小学生殺人とインターネット 松之丞式博客
“HP書き込み”で呼び出す  優雅なる没落
ネットの書き込みがトラブルに? dress-up-smartly


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殺された少女は何をしたのか

長崎 佐世保で哀しい事件が起きた。どんな子供であろうとも、殺すというのはよっぽどのことがあったに違いないと思うのである。殺された少女は何をしたのか。二人の小6の少女の間に何があったのか。
 「女児は怜美さんを呼び出して切りつけたことを認め「大変悪いことをした」と涙ぐんでいるという。」
殺された少女の死を悼み、同時に殺してしまった少女の将来にも思いを馳せずにはいられない。それぞれの親の気持となると、同じ子を持つ親としてそれぞれどんな夜を過ごしているのかと思う。居たたまれない。しかしながら、この事件から学ばなければならないものは少なくないのだと思う。学校という教育の場、家庭、地域。何かが失われていっているのだと思う。都会とか田舎とかには関係なく・・。
偶然ではあるが、亡くなった少女は 我が家の娘と同じ名前だった。

追記: 妻を3年前にガンで亡くし、3人兄弟の末っ子の長女。血まみれで倒れている現場にかけつけたという父親の談話・・。朝、「忘れ物はないか」に「ない」と声だけ聞こえてバタバタ廊下を走っていく音、それが最後だったと・・。「甘かしていた部分はあったかもしれない」とも・・。聞いていて切なくなる記者会見だった。


文中LINK top
yahoo news

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鬼ごっこをする校長先生

 悪いことをした時に、ごつんとやられたげんこつがじわぁっと涙がでそうになるほど痛かった。そんな担任の先生が小学校の時にいたのを思い出しました。1学年1クラスで30人もいない中学校を卒業しました。校長先生は数学の授業を受け持っていて、教頭先生は技術を担当していました。美術の授業はあったけれど本当の美術の先生はいませんでした。全校生徒の顔と名前をみんなが知っていました。そんな中学校とそこに通う生徒が大好きな先生の話が「先生 いろいろ・・・♪ Ⅱ」という題でyoshiさんの「jikka*day by day」に載っていて自分のことを思い出しました。先生の役割、家庭の役割、地域の役割、子供が育っていくのにはそれぞれの責任があると思うが、親から呼び捨てにされるような先生も少なくない昨今、校長先生あそぼー と呼ぶ子供もそれに答える校長先生も まだいるんだなぁと嬉しい記事だったのでTBでご紹介。

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差別と個体差

「健康優良児っていけないの?」という記事がピーさんの「たなぼた」にアップされていた。昔行われていた表彰が今行われていないのはどうしてなんだろうという話で、調べた範囲だと昭和10年に大阪であの江崎グリコが始めたイベントが全国にひろまったもので、日本の栄養状態が良くなり幼児の体格もたいへん向上するなど、所期の役割を果たすことができたと判断し、昭和63年で終了したということのようである。ただ、ピーさんが書かれていたように、表彰するのを差別だという風潮はあるようです。

 「違いを認めない」ということが果たして平等というものなんだろうか。

この部分、大賛成です。小学校の運動会で徒競走が行われないところが増えているそうです。その前段階として、早い、遅いで組を分けて、遅い人でも一等がとれる組み合わせにしていたりするようです。単純に身長順で組を分け3等までに賞品やリボンがもらえた時代は遠い昔の話になっているようです。体が大きくて力が強かったり、運動能力が優れていて足も速かったり、運動会のヒーローを今の教育はつぶしているようです。30人31脚のように皆で頑張るのも良いと思うけれど、どうやってもかなわないことがある現実を知ることも大事だと思うのです。ちょっと勉強が出来る運動音痴の惑君よりも、足が速くてドッジボールのうまい健ちゃんのほうが人気者だったりする子供の世界では、勉強の苦手な健ちゃんと惑君は実はとても仲良しでお互いを認め合っていました。選手リレーの選手の印や一等賞のリボンを二つもつけてニコニコ誇らしげだった健ちゃんが今の小学校だったらどうしていたのだろうと思ったりします。そうそう勉強も運動もそこそこ、でも音痴で歌がだめで、歌うと皆に笑われていた秀ちゃんもいました。運動も勉強も苦手で背も小さかったけれど、勝ちゃんは面白いこと言って皆の人気者でした。皆が違いを認め合っていた小学校。そんな小学校は日本にはなくなっていこうとしているのかもしれません。これからの日本を担っていく人間を育てていく教育がヒステリックに騒ぐ一部の声にコロコロ右往左往するようでは哀しすぎます。

文中Link top 
母子健康協会 昭和9年に江崎グリコ創業者江崎利一が、親と子の健康増進を目的に設立した団体

同じ意見と思われるココログの記事
ベーゴマ 週刊江崎彰さん(「ひとこと」GWで改名中)の記事 最近の子供は負けることを知らないという話から・・

ゆとり教育 hiroさんのDriving Power AE Seriesの記事 仲良く手をつないでゴールインする徒競走の話あり


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どの子もこどもは星

どのこも子どもは星

どのこも子どもは星
みんなそれぞれがそれぞれの光をいだいて
まばたきしている
ぼくの光を見てくださいとまばたきしている
わたしの光も見てくださいとまばたきしている
光を見てやろう
まばたきに 応えてやろう
光を見てもらえないと子どもの星は光を消す
まばたきをやめる
まばたきをやめてしまおうとしはじめている星はないか
光を消してしまおうとしている星はないか
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
そして
やんちゃ者からはやんちゃ者の光
おとなしい子からはおとなしい子の光
気のはやい子からは気のはやい子の光
ゆっくりやさんからはゆっくりやさんの光
男の子からは男の子の光
女の子からは女の子の光
天いっぱいに
子どもの星を
かがやかせよう


東井義男さんという 教育に大きな足跡を残した人の作品である。教師という職業の良心を見る思いがする。

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子供は食事抜き。親は太りすぎ。

 なんと哀しいニュースである。岸和田の中学生21kgの虐待事件。どんな人間関係があったのかはワイドショーやら週刊誌やら賑やかに訳知り顔で語られたり書かれたりするのだろう。人それぞれ他人には計り知れない様々な事情はあるのだろうけれど子供がその被害者になるのは居た堪れない。学校は、警察は、児童相談所は、と誰かが救えなかったのかなどという話題ももうひとつの犯人探しのように盛り上がるに違いない。個人的にはそういう類の話はどうも好きになれない。サッカーのゴールが倒れて生徒が死んだ事故で校長を自殺にまで追い詰めたのは誰かということである。
 話をタイトルに戻します。あの父親と内縁の妻。二人ともしっかりした体格で太り過ぎじゃないだろうかという話をしたかったのである。食事を与えないばかりか、甘いもの、高カロリーなものをこれみよがしに食べていたりもしたのではないかと思わせた。人間を容姿で判断してはいけないとはよく言われるが、第一印象というのは容姿以外ないともいえる。父親はなかなかのふてぶてしい悪人面(づら)。大型トラックからあの風貌と体格で降りてこられて「おい!」などとすごまれたら情けないが「あ、いやすいません。」と言ってしまいそうである。さて内縁の妻はというと、どこかでみたような雰囲気、どこか・・やはり事件の犯人。あのカレー事件の林真須美にどことなく、単に二人とも太っているだけかもしれないが、似ているような気がするのは蔑視だろうか。ただ、どちらも事件の犯人と言われなければ、気の良いおばさん風でもあるのだ。その分かえって怖いと思う。あの向田邦子さんの「阿修羅のごとく」には「女は阿修羅だよな…」という台詞も確かにでてはくるのだが。阿修羅度のチェックはご自分で・・。(笑)

上記文中LINKのtopページ
朝日新聞http://www.asahi.com/home.html

毎日新聞http://www.mainichi.co.jp/index.html
阿修羅の如く 公式HPhttp://www.asyura-movie.jp/

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モノづくりの原点

 1月24日(土) 土曜特集「競演!からくり人形 モノづくりの原点は江戸にあり」というNHKの番組を見た。おなじみ「茶運び人形」からからくり人形の最高峰といわれる「弓曳き童子」まで紹介すると同時にその仕掛けも説明してにゲストが驚き、司会がこれがモノづくりの原点で現在の企業でも改めて評価されている。ロボットの原点だと解説していた。
 からくり人形が日本のものづくりの原点なのだろうか?結局何人かの天才的な発想を持った人に寄ってなしえたもので豊かな創造力を持った人材は日本にもいたというだけの話で、その天才たちの作品を紹介したに過ぎないのではないだろうか?ただ、茶運び人形やそういう天才が作ったからくりの設計図、作り方が本にして売られたそうで言うなればからくり人形指南書にして日本最古の機械工学書 その題を「機巧図彙(からくりずい)」というそうである。 この本は天才の一人からくり半蔵と異名をとった土佐の細川半蔵頼によるものである。
 寛政年間 18世紀末のこと。欧米では機械文明が発達してはいたが、からくりのような自動制御などという技術はなかった時代のことで日本の独自文化といって間違いないらしい。ものづくりの原点として、彼ら天才の発想をモノにつくりあげた精緻な加工技術やコツコツと時間をかけてつくりあげる根気はDNAのようなものがあるかもしれない。モノづくりの原点というならば、「機巧図彙」という本がベストセラーになりえた日本の教育にあったのだと思う。
 コロンンビア州立大学ロナルド・ドーア教授の『徳川日本の教育制度』という論文の中には江戸時代の識字率は、英国よりもはるかに高かったと書かれているそうで寺子屋によってなしえていた教育レベルの高さと鎖国の是非は別として江戸幕府による長期安定政権による戦のない世情こそモノづくりの原点だったではないだろうか?
 「機巧図彙」を買って同じように真似て作ってみる。そうして自分なりにアレンジしてみるくらいは皆やったのであろう。天才の発想・技術が本を買うお金は必要でも、特許料も払わずに沢山の人が共有し、さらにアレンジして行く。これは最近コンピュータの世界で言われているオープンソースの発想と同じである。一子相伝、誰にも教えない、特許侵害などというのではないおおらかさ。こうして底上げされた技術・知識レベルの高さこそがモノづくりの原点であり、明治になり怒涛のごとく押し寄せる西洋文化を素早く吸収しモノづくりに長けたjapanの原点だったのではないだろうか。
 さて、「機巧図彙」を読み解かなくてからくり人形を作って見る楽しみをそのまま提供してくれる商品があることをからくりを調べていて知った。設計図と部品つき。難度が高いのか完成品も発売されている。モノづくりの楽しさにはまるのも一興かもしれない。小学生の頃自分が科学者になったような気持でわくわくしながら付録を楽しんだ雑誌があった。「学研の学習と科学」である。先の商品は「大人の科学」シリーズと銘打ったその学研の商品で「大江戸からくり人形(茶運び人形)」と「弓曳童子」の二つがある。ちょっと心惹かれるものがある(笑)
 学校以外での勉強について、「全く、または、ほとんどしない」と答えた生徒は41%という文部科学省の調査結果が昨日発表になっていた。わくわくしながら学ぶ楽しさを知らないのは不幸な気がする。そうして日本のモノづくりの土台が揺らいでいるような気がする。

上記で紹介したLINKの先頭HP
THE KARAKURI からくり人形
学研 大人の科学シリーズ Top

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読書絵手紙コンクール

 読書絵手紙コンクールというのを日本海新聞が行っている。本を読んだ感想を絵手紙にするという企画である。今ひとつピンとこなかったのだが受賞作品を見てその良さがすぐわかった。 ひとつは本を読んで絵にするという印象のイメージ化という作業が行われる点。もうひとつは単なる感想ではなく誰かに伝える手紙という形式をとったこと。絵と短い文章という絵手紙の形を借りて子供たちの心が伝わってくる作品ができあがっている。手紙の相手は物語の主人公にだったり、友人にだったり家族にだったりする。昨年の受賞作品の文字だけを紹介してみる。

最優秀作品 (智頭町立富沢小学校5年 国岡由佳さん)
かなさんへ エルンストみたいに迷っても友達に話せばらくになれるよ!!  由佳

優秀作品 (学校法人かもめ幼稚園 6歳田澤茉夕さん)
にじいろのはなさんへ かんむりをあげるよ まゆ より

優秀作品 (岩美町立岩美北小学校3年 田中春奈さん)
大ふくろうへ そんなに先生になりたかったんだね へんしんすごかったよ 私の学校にきてね 田中春奈より」  

入選の中から一点 (岩美町立浦富保育所2歳 野沢祐斗くん)
じいじとばあばへ ゆうと より」 文字は代筆だがきっとこんな会話があったのだと思いたい。
「ゆうとくんはだれにだすのかな?」「じいじとばあば!!」100点満点の孫である。(笑)

 是非絵と一緒に見て欲しい。 「昨年の受賞作品」で飛ぶHPの 「受賞者のみなさん」の絵手紙部門から 受賞作品が見れる。地方文化の担い手としての新聞社の役割は小さくない。独創性あふれるとても良い企画だと思った。鳥取の雪の影響の混乱を見に行って初めて知った日本海新聞http://www.nnn.co.jp/主催のこのコンクール応募資格は鳥取県在住で、今年の募集は今日で終わりという間の悪い紹介ではある。

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校長先生の命の授業

 永六輔さんはおばあちゃんおじいちゃんが孫と一緒に暮らす一番大きな意味は死んでいくことだと言っていた。幼いうちに身近な人の死を体験するということで生命が限りあることを知り、同時に尊さを知る。自分のおじいちゃん、おばあちゃんじゃなくても可愛がってくれた近所のおばあちゃんでも良い。そういう付き合いが日本の何処にでもあって、子供たちは地域の子供たちだった。と話していた。

 それを自分の死を持って生徒に伝えた校長先生がいた。 神奈川県茅ケ崎市立浜之郷小学校の大瀬敏昭校長。 このお正月2004年1月3日、57歳の若さで亡くなられた。 以下 直後の死亡記事とは別に、この校長先生を伝えたいと言う暖かい記事が21日再び朝日新聞の教育欄に掲載された。

 是非一読されたい。 泣けてしまう。

2003年6月号のAERAにも「癌の校長の「命の学習」 死にゆくさまを子どもに見せたい」という紹介記事が掲載されていたようだ。

記事にはこの後に先生が授業で取り上げた本も紹介されている。きっといい本ばかりなのだと思う。

呼び捨ての「校長」ではなくて敬愛を持って生徒からも先生からも「校長先生」と呼ばれていたであろう

 茅ケ崎市立浜之郷小学校の大瀬校長先生に 合掌。

このコラムのLINKはいずれも朝日新聞(http://www.asahi.com/)の中の記事である。

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平成教育委員会を見て思った

 よしわかった。これはXXだよ。とわかる問題だけを訳知り顔で現役高校生に無理やり解説したりしながら「平成教育委員会」楽しく見ていたのだが、「私だって、わかるよ」と煙たがられるのも多かったが「こんなの習っていない」という問題もいくつかあった。
 自民党の国会議員がマニフェストのうたい文句を正しく覚えていなかったなどというのはまぁご愛嬌としておくけれど、指導要領という学校教育の基本指針がいろんな状況や要因で見直されるのは必要だけれども、大きな間違いをすでにしてしまってきたのではないかというような気がする。
 「こんなの習っていない」には二つの問題が見えてくる。ひとつはその問題が私立中学の入試問題であり、その問題を解ける知識を学校外から得ておかないと受からない受験問題であるということ。もうひとつは別の世代では習っている事柄がある世代では習っていないという教育のレベルの不統一が発生しているという問題である。若い世代の教育のレベルが確実に落ちてきていると断言できる状態であるようだ。
 昨年小泉首相が引用して「米百俵」という言葉が話題になったのをまだ覚えているだろうか?  『明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられた。しかし、当時の指導者(藩の大参事であった小林虎三郎)は、この百俵を藩士たちに分配せず、将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金とした。その結果設立された国漢学校は、後に多くの人材を育てることになった。』  小泉首相は、このエピソードに続けて、『今の痛みに耐えて、明日を良くしようという「米百俵」の精神こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。』と訴えた。どちらかろいうと分配されなくても耐えた藩士に力点がおかれて紹介されたような印象があるが、その百俵を教育に投資し、人を育てたという部分にこそ力点がおかれて引用されるべきエピソードなのだ。
 それではと、日本の教育に対する投資(国家予算)が諸外国に比べてどうなっているかというと、文部科学賞の発表によれば「我が国の国内総生産(GDP)に対する公財政支出学校教育費の比率は,OECD諸国の中で低い。」「我が国の高等教育に対する公財政支出の比率は,OECD諸国の中で最も小さい。」「我が国の一般政府総支出に対する公財政支出学校教育費の比率も低い水準にある。」と自ら報告しているのである。(参考「教育指標の国際比較」(平成15年版)について 平成15年1月20日発表)
 それでも資質や民間の塾利用等によって世界一と言われていた教育のレベルが維持されているのなら良いがそれもまた厳しい状況なようである。数学の授業についていけないと感じている中学生が日本では、アメリカと中国の実に3倍近くもいるという調査が報告されている。(参考:中学生の生活意識に関する調査 三 自己評価、五 学校生活の項より) 
 意識の問題と実際の学力は別とういう考え方もあるだろう。それも調べられている。平均として悪くはなく優秀なほうではあるが、トップクラスの優秀な生徒の比率が他国に比べるとやはり低いようである。(参考:国際学習到達度調査報告(PISA))
 資源のない日本が世界と伍して活況を呈してこれたのは高い教育水準だと言われてきた。つまり人こそが唯一の世界に誇れる資産であったはずなのにそれが枯渇しようとしている。今日一月三日の朝日新聞の朝刊には「台形の公式 復活」の記事が出ていた。

 「教育は、国家百年の大計。食われねばこそ教育をするのだ」   小林虎三郎

 そう訴えた米百俵の小林虎三郎氏は今の日本の教育を見てどう思うのであろうか。「平成教育委員会」を見た夜にそんなことを考えた。

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